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NBAについて主観的に語ると共に、ダイエット法もご紹介。(旧:NBA選手 ニュース)

NBA History 〜NBAの創成期〜

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<NBAの誕生>

NBAの起源は、1946年まで遡る。
当時はまだNBAという組織ではなく、BAA(Basketball Association of America)という名称でバスケットボールリーグが誕生した。
 
きっかけは、AHL(American Hockey League)などに利用されるアリーナが使用されない時期に何か有効利用できないだろうか、という程度の目的に過ぎなかった。
 
初代コミッショナーには、AHLコミッショナーのモーリス・ポドロフが就任した。
BAA創設時は、全部で11チームの2ディビジョン制で、チームは主にニューヨークなどの東海岸の大都市を基盤とした。
だが、BAA誕生より20年前の1926年、実はこの年にNBL(National Basketball League)という初のバスケットボールリーグが創設されていた。
そこにBAAが誕生したことで、両者は、バスケットボールリーグ同士ライバル関係となってしまった。
 
当時NBLは、実力も選手の質もBAAより上回っておりNBLであまり活躍できなかった選手がBAAに移行した。
しかし、NBLが基盤とする地域は、アメリカ中西部の比較的小規模なところだった。
その為、大規模な都市を基盤としていたBAAの方が経済的にも優位に立った。
 
このような事情があり、BAA創設3年目の1949年に両者は話し合いを行ない、BAAがNBLを吸収するということで合併に至った。
これを期にリーグは改称し、『NBA』という現在のプロバスケットボールリーグが誕生した。
 
チーム数は、BAAの既存12チームに加え、NBLから6チームが合流し、さらに新チームが1球団新設されたが、BAA12チーム中2チームは解散に追い込まれたので、NBA初年度の1949-1950は、17チームの3ディビジョン制で幕を開けた。
 
全米規模となったリーグではあったが、それとは裏腹に17ものチームを持つ十分な人気はなかった。
 
1950年代に入るとすぐにその影響が生じることになる。
まず、17チーム中の6チームが解散を余儀なくされた。
さらに、当時のNBAの試合はまだショットクロック制度が導入されていなかったので、リードを奪ってあとはボールを保持して時間を稼ぐことができた。
その為、19対18というNBA史上最もロースコアなゲームを記録してしまうこともあった。
このような事態が見応えのない試合を生み、NBAの人気低迷に大きな影響を与えてしまった。
 
そこで、シラキュース・ナショナルズ(現PHI)のオーナーのダニー・バイアーソンが、見応えのある試合を届けるにはどうすべきかを考えた末、ショットクロックを発案したのだった。
このショットクロック制度の導入により、試合のテンポは早くなり、リーグを盛り上げることになった。
 
これが、NBA界を一躍させた1回目の転換期だろう。
 
 

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<1960年代〜1970年代まで>

1960年代になると、NBAはチーム数を11から14にまで増やし、ようやく軌道に乗り始めた。
 
1966年、2代目コミッショナーとしてJ.ウォルト・ケネディが就任する。
しかし、その翌年の1967年に再び別のライバルリーグABA(American Basketball Association)が創設される。
ABAは、ライバルリーグであるNBA と差別化を図る為、様々なエンターテイメント性を考案した。
スリーポイントショットやオールスターでのダンクコンテストなどである。これは、現NBAにも導入されているが、発祥は、ABAだったのだ。
 
しかし、1976年にABAは財政難となり、消滅した。
ABAで最後まで残ったSAS,DEN,IND,NYNの4チームは、NBAに加盟した。
スリーポイントショットもNBAに導入されることになった。これは1979年からだ。
 
1970年代のリーグは、大都市同士のNBAファイナルが3度実現したことがきっかけで人気を保つことに成功した。ロサンゼルスvsニューヨークだった。
さらに、チーム数も増え、2カンファレンス4ディビジョン制になり、ようやく現代NBA に近い構成になった。
 
ここからNBAの人気は急上昇していくかに思われたが、そう上手くはいかず、NBAの人気はむしろ急降下してしまうことになる。
その原因が選手間の薬物の蔓延だった。
当時のNBA選手は、半分以上が薬物に依存していた。
それを知ったファンは、NBAを敬遠するようになった。
その評判は、ダーティリーグと言われる程であった。
 
そんな中、1975年、3代目コミッショナーにラリー・オブライエンが就任した。
 
少し話は逸れるが、NBAにはレギュラーシーズンの成績上位チームは、プレイオフというポストシーズンに出場する権利が与えられる。
レイオフは、7戦形式で試合を行い、先に4勝したチームが次のラウンドに進めるというトーナメント方式だ。
優勝チームにはウォルター・A・ブラウントロフィーというものが贈られる。
 
ウォルター・A・ブラウンとは、アイスホッケーの発展に非常に重要な役割を果たした人物である。
彼は、アイスホッケーのアマチュアのコーチをしていた経験もあり、1951年には、財政的に苦しかったホッケーチームのボストンブルーインズを買収し、オーナーとなってチームを解散の危機から救った。
そのような実績を称え、優勝トロフィーに彼の名を付けたのだ。
 
話を元に戻す。
ラリー・オブライエンは、非常にに誠実でおおらかな性格だった為、ファンや関係者からもとても人気があるコミッショナーで、彼の人柄の良さに大勢の人々が彼を信頼した。
1975年に就任し、1983年までNBAコミッショナーとして活躍をしたラリー・オブライエンは、その功績を称えられ、1984年からの優勝トロフィーの名が、ラリー・オブライエントロフィーに改名された。
 
就任時は、選手の薬物問題で頭を抱えていたラリーだが、1978年ドラフトでラリー・バード、1979年ドラフトでマジック・ジョンソンがリーグに入団したことにより、ファンの関心が高まることになる。
今ではレジェンドとなり、NBAファンであれば知らない人などいないラリー・バードとマジック・ジョンソン
彼らのパフォーマンスは、当時から別格であり、見る人全員を魅了していくのだった。
 
 

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<1980年〜1984年まで>

1980年、NBAの歴史上最強のライバル関係が築かれる。
ラリー・バードとマジック・ジョンソンの入団だ。
寡黙な白人選手のラリー・バードはBOS、陽気な黒人選手のマジック・ジョンソンはLAL。
彼らは、入団直後からすぐにその才能を見せ付ける。
そして、1983-1984NBAファイナルでついに直接対決が実現する。
その伝説のシリーズは、今もなお語り継がれている。
 
ラリー・バードとマジック・ジョンソンの影響力は絶大だったが、それでもリーグは薬物の蔓延によってのダメージを完全に払拭することは困難で、さらにリーグは財政難も抱えていた。
 
そのような状況のまま、1984年を迎えることになる。
この年は、NBAの歴史上、最も重要なターニングポイントになったと言っても過言ではないだろう。
 
1984年、大きく分けて二つの出来事が起こる。
一つは、NBAという枠を超え、その名を世界中に轟かせたバスケットボールの神、マイケル・ジョーダンの入団だ。
そしてもう一つは、4代目コミッショナーにデビッド・スターンが就任したことだ。
 
この二つの出来事が、現在までのNBAを築く上で非常に重要な役割を果たすことになる。
 
マイケル・ジョーダンが選手としてプレーでファンを魅了し、デビッド・スターンがNBAの変革を進めていくのだ。